佐藤小夜子 DANCE LABORATORY 公演『ダンス日記Vol.1』
2006年3月25日〜3月26日 ひまわりホール
<批評>
名古屋の佐藤小夜子の「ダンス日記」Vol.1(70分)を見る。構成・振付の佐藤が進行役の形で絡みながら10人が踊るが、半数の5人は小劇団に参画していて、総体的には、演劇と舞踊をミックスした新要素を打ち出したい気迫が窺えた。 会場は市の中心部、オフィス街のビルの10階。面するきれいな大通りにはシダレザクラやシモクレン、コブシが満開で、何やらアングラ的な上演には場違いな空気だが、ビルの持ち主の損保ジャパンが企業利益の社会還元として助成している人形劇場だ。こぢんまりとして、プロセニアムもなく、前半分は座布団の席。靴を脱いでビニール袋で持ち込むへんは、かつての「紅テント」だが、大劇場の新橋演舞場だって昔は3階席は靴を脱いで上がった(演劇記者をしていたから、その下足札を改築のとき記念に貰って、今でも大事に持っている)。小宇宙だが土日にかかる三回公演と欲張って、意気軒昂だ。 佐藤は現代舞踊協会主催の8月の現代舞踊フェスティバルに去年が初参加。認められて今年も出品する人。「ダンスラボラトリー」を主宰するだけに、実験には好奇心が強く、元来パフォーマンス的傾斜ががあるが、千両(銭料かも)役者を弟子に持てば、芝居心もそそられるというもの。日記形式で11景。実験即難解ではない。明解だ。 勇壮な行進曲につれ全員「大手を振って」歩調も高く登場するが、衣装(武田晴子)は各人まちまちで、Tシャツあり、背広ネクタイ姿、和服あり。お揃いでない点、体型もまちまち、ダンサー向きでない人も(別にプロのダンサー志望でないし、趣味として演劇が先行、専攻らしいから)。日記の日付は、舞台上手の白板に佐藤が一々書き込む。4月7日の『恋の予感』に始まり、11月7日には『恋の行方』を見せる。あんなにモジモジしていたのに、愛憎悲喜こもごも、亭主関白か嬶天下か、天下分け目の戦いに転化している。『独白』の独演では、茨城弁(?)の蚤という設定で男が思いのたけを発声する(毎回、設定を変えたとか)。8月の『ピクニック』は、「丘を越えて行こうよ」の歌詞に乗って、会社員らしい6人が思い思いに憂さを晴らす。 10月は、着物の女性が「小さい秋見ィつけた」の歌で、一枝の紅葉をかざし『旬の素材でキューと1杯』。大晦日は、二十も『福袋』を抱え込んだ女性の抑え切れぬ喜び。フィナーレは、翌元日の『ワルツ』。ヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」は、ニューイヤー・コンサート気取りかよ。退場も勇壮な行進曲で「1年の計は元旦にあり」の元気よさ。一面、桜の花吹雪。「サイタサイタサクラガサイタ」のだ。 佐藤は、日々の暮らしの断片的なスケッチを通して、平凡な人生の陰に潜む哀歓に巧みな起承転結を与え、一本、筋を通して味わい深くした。 出演は、劇団サラダから一人、OPT(オブジェクト・パフォーマンス・シアター)からは、スタッフを含め「七人ほどの侍」が参加。オプトは、東京で言えば、シアター・カイでの「チバトロ・アノ」(チェコ語で、小劇場)と同根らしい。 ダンサーとして相応の年季を積まねば主役を張れないのか。だが、この漲る身体表現への疼きはどう始末してくれるのか。技術は仮に未熟でも表現欲では人後に落ちない。ならば、誰でも踊っていいのだ。堅苦しいことは抜きにして、踊る喜びに浸りたい。そういう人は踊っていいのだ。佐藤はそこに一筋の活路を開拓し、その欲求を全開させた。 (木村英二 舞踊評論家/音楽舞踊新聞 2006年5月21日号) 人間の踊る心を引き出す 演劇性を加味し、独自の創作舞踊を展開する佐藤小夜子が25、26日、名古屋のひまわりホールで「ダンス日記」を上演した。俳優を交えた11人の出演者が、現代人の日常をさまざまな形態で表現する。ソロありデュエットあり、群舞あり。ダンスとも演劇とも判別できない、ユニークなパフォーマンスだった。 「出演者が遊んでるようにも見える」「楽しそうだ。ダンスができなくても参加できそうだ」と観客。佐藤は公演前、「ダンステクニックを抑制し、人間が本来備えている踊ろうとする心を引き出したい」と語っていた。その試みは半ば成功したといっていい。だが半面では「ダンサーの優れた身体表現が見たかった」「物足りない。2500円の入場料は高過ぎる」の声も。 この公演を見て再認識したのは、人の喜怒哀楽がダンスに通じること。年齢、容姿にかかわらず、誰もがダンサーになる資格があること小さな会場ではなく、広場や公園で上演すれば、観客も参加でき、一層趣旨が明確になっただろう。今後も佐藤の活動を見守りたい。 (上野茂/名古屋タイムズ) マーチで始まるプロローグ、マーチで終わるエピローグ、その間に人間の日常の営為を日記風に綴った意欲的な舞台でした。白いボードにマジックペンで書き込まれる日時がしばらくすると消えてしまうことが、宇宙に存在することのはかなさを暗示し面白く感じました。また出演者の衣装が多様で、ネクタイにスーツ、着物姿のダンスは、まさに日常そのものでした。想像力が貧弱で分からないところもありましたが、ほろりとさせられたり、怒りがこみ上げるといった日常が、"身体の言葉"で伝わってきました。「旬の素材でキューと一杯」などは、まさにそのために生きているのではないかと、共感を覚えました。 (河野光雄/演劇評論家)